昭和50年03月25日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」

 心に真がなければ神に嘘を言うのも同然じゃ。ここの所を中心に頂かなければならんところだと思う。同時にその辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと。それとこれとを今日私は思わせて頂いて思うのですけれども、私はどうしても分からない事が沢山ある中にも、甘木の初代の安武松太郎先生の信心の、素晴らしいのは、大体どこだったんだろうかと。どこにああいう大変な働きを現わしなさる事が出来たんだろうかと。
又安武松太郎先生の信心に、神様が現れなさったんだろうかという風に、いつも思わせて頂いんです。皆さんも御承知のように、非常に天地の大恩を感徳されたと言う事を、誰よりも天地の大恩を、深く広く分かられた方だというふうには想像が出来ます。天の恩を説く人はあるけれども、地の恩をこれ程に説かれた宗教が又とあるだろうかと。初めて小倉にお参りをされた時に、それを思われたという位です。
 それこそ足元から鳥が飛び立つ思いで、びっくりするような思いで、天地の御恩徳に対する感動を示されたというのですから。だからその辺の所が、先生の信心の誰よりも違う所だという風に思うておったんですけれども。それを今日色々御祈念の中に考えさして頂いたんです。そして安武先生の信心それだけれども、その元をなすものは何であったかという事です。私は安武先生は心行の大家でおありになったと言う事です。心行。今合楽で言われておる所の、表行形の行はここでは絶対いけないと駄目だと。
 水を掛ったり断食をしたりと言った様な、そういう修行は金光教の信心、合楽の信心はないんだとまで極言しておるわけです。それで心行と言う事に専念させて頂いておりますと、本当に、今まで迂闊にしておった事に驚くばかりなんです。安武先生のお話の中には、それこそ様々なエピソ-ドがあります。いうなら伝説的なお話とさえ思われる様な話があります。ある時に修行生の方に教えておられる。
 お風呂にお入りになった時に一寸熱過ぎた。それで今日の風呂の当番は誰だったかと言うて呼びだされた。今日の風呂は熱過ぎた。どうして丁度良い時に言わないかというわけでしょう。私が入るのに今日の風呂は熱過ぎた。それですかさずその修行生の人は言ったんだそうです。先生はいうならケチケチされる。何でもかんでも勿体ない勿体もいと言われるから、今日は薪も使わなければ石炭も使わなかった。
 今日は庭の塵とか枯れ葉、枯れ枝なんかを掃わき集めて、先生今日はそういう廃物で風呂を沸かしましたと申し上げたそうです。そしたら安武先生が仰っておられる事が、枯れ葉枯れ枝は天地の親神様のものじゃなかのと仰った。徹底した頂き方がです、そういう教え方を徹底してなさったという事は、どう言う事かと言うと心を使えよ、心を行き届かせよと言う事だったと思うですね。
 師匠が入られるお風呂が熱過ぎても、ぬる過ぎてもいかん。丁度師匠が一番喜こばれる、一番丁度良い所を見計らって、お風呂が沸きましたと言う事は、それまでに随分心を使わなければならない。その心を使う事その事が心行なのだ。枯れ葉枯れ枝一本一枚でもです、天地の親神様の物だと言うてそれを大事にする、その根本心です心を使うと言う事をです。お風呂に入られてタオルなんかでも、捻る切るような使い方はなさらなかった。そんなことするとタオルが弱い。
 天地の親神様のタオル一本でも、人が一年使う所は二年も使わせて貰わなきゃ相すまんと言う様な心の状態がです。そういう心を使われながらタオル一本でも絞られたという事になるでしょうがだから心行です。その心行に徹底しておられたと言う事です。これは私も必ずそこん所をやっぱり風呂の事で申しましょう。夕べも私夜中に風呂に入らせて頂いたら、石鹸なんかどろどろです。石鹸箱にポンと入れただけですから。そういう時に勿体ないとかそう言う事でなくて、心をそこに使うと言う事が心行だと。
 これは私もそれこそ甘木の親先生じゃないばってん、これはてっていはきものをそろえるとか、便所を綺麗にするとか、お風呂の使い方石鹸一つの上にでも、タオル一つの上にでも心を使う事は、てっていしてこの事を皆さんに繰り返し聞いて頂こうと思う。その石鹸いっちょの使い方を心の中に精進させて頂く事が心行なんだ。だからそれが徹底して出来たらです。風呂だけではない、どこででもそういう心を使う事が出来るようになるだろうと私は思うです。
 私は甘木の先生の、信心の素晴らしかったのは、そういう意味に於いての心行。成程不平不足を言わなという修行に取り組まれた。これは心行大変な心行。ご晩年の頃は不平不足を今年は思わんで済む様な修行に取り組たいと仰っておられる。私は心行の大家でおありになった。今日私、安武先生の一番素晴らしいものを、気づかせて頂いた様な気がするんです。真似せにゃいけませ、真似でもせにゃいけません。そして愈々心の上に、心は真がなければ神に嘘を言うも同然だと。
 心行が出来ずして神様神様と言うた所でです、本当にそれは神様に嘘を言う様な事になると言う事をひとつ皆さんが、本気で思わなければいけないです。履物一つ揃わせて頂くでもです。次に上がって来る人が、気分よう上がられなさるようにと言う心を使うという事がです、心行です。実意丁寧神信心とは心行です。実意丁寧とは、わがまま、横着を取り外した心だと。
 履物でもポ-ンと蹴ったくったごたる脱ぎ方は、如何に横着な実意のない事かと。はぁこげん乱らかしてと思うだけではなくて、それを一寸手を添えて、揃えて上がるという、それが心行だ。そういうふうに例えば私が、お風呂の事でいつも、タオル一本石鹸一つの使い方の事を喧しく言う事は、その事だけではない。それを便所でもそれを使う事にそういう心掛けになる事だろう。自分の居る場居る場ででもです、全ての事をそういうふうに心を使うて行くようになったら、それが心行です。
 実意丁寧神信心とは私は心行だと思うです。これなら絶対大きなおかげは受けられるというふうに。今日私は思うんです。私は先日から神様からお知らせを頂いて、御神米の包装用紙が大きくなった所、しかも私好みというですか、朱色で金光様の御神米の、ここでの包装紙を朱で頂いた。しかも大きいのですから、ははぁ合楽の神様が大きくなろうとしござるなと言う事です。合楽教会に大きな働きが始まるなと言う事です。
 それには私自身が大きくならなければいけないと言う事に気づかせて頂いて、心の中に最近何時も繰り返させて頂いておる事は大きゅなれ、大きゅうなれと言う事です。どういうものを見たり聞いたり、嫌な思いをする時でもです。大きゅうなれ大きゅうなれと、心に呼びかけますと心が大きゅうなるです。言わんで済む様になるです。いうなら不平不足を言わんで済むようになるです。
 昨日私北野の中村さんところの宅祭りでしたから、帰らせて頂いてすぐ休ませて貰った。そしたら丁度テレビがついてましたが、あれは何という女優でしょうか。有馬稲子という女優。あの人が大阪の商人の娘か何かでしょう、大阪弁のような言葉で、誰かに話ておるその一言がです。私は素晴らしいと思ったです。そこの使用人を見たらそこの主人が分かると、いわば親達から自分は教えられてきたと言う事を言っております。そこの使用人を見るとそこの主人が、どのくらいの人かと言う事が分ると言うんです。
 してみると家の使用人の悪口だん言われんですね。おかしゅうしてのんぼり向いて唾はくごたる事ですよ。使用人が行き届かんの、使用人が働かんのと、店主が言うておるとするなら、それはあなた自身がその通りですよと言う事になるんです。主人が素晴らしいなら、使用人も必ず素晴らしい。教会長が素晴らしいなら、信者も立派な信者が出来る。だから、使用人なら使用人に子供なら子供にです。
 目にあまるような思いをする時にはです、親を見れば子供が分かるという事にもなるし、使用人を見りゃその主人が分かるという事に思いを置いたら、これは自分が修行するより他はないな、自分が愈々そういうふうな頂き方をしながらです、只大きゅうなれ大きゅうなれと言うのはそう言う事なんです。そういう自分の非を分からせて頂くから、大きゅうなれ大きゅうなれで、大きくなって行くのです。
 昨日は中村さんのところの宅祭りに、あちらへ参りまして、すぐ神様に御挨拶をさせて頂きましたら、頂きます事がテレビでコマ-シャルをやっている、ラ-メンの宣伝文句です。味噌ラ-メンと醤油味のラメ-ンのあれを言うてますよ何か。味噌ラ-メンと醤油味のラ-メンです。の事を頂いたからははぁ今日は、この事が御理解に芯になるなと思わせて頂いた。味噌ラ-メンいうなら、腹いっばいになると言う事、ままになると言う事はです。おかげを頂くと言う事ですけれども。
 只おかげを頂いただけではなくて、頂いたおかげが返って味噌をつけるような結果になる様な信心ではいけないと言う事だと思いました。醤油味のラ-メンというのは皆さんも、何時も頂かれる様に醤油というのはあれは普通ムラサキと申します。ですからここでは醤油のお知らせを頂くとです、それこそ醤油のように真っ黒い修行をしておってもです、必ず紫のおかげが頂けれる前提ですよと、私は皆さんに言うでしょう。
 紫という事は色々な色をもってお知らせを頂く時に、赤が情熱ならば紫は安心の色とさえ、ここでは言われております。だから安心の頂ける事の為の修行でなからなきゃいけない。同じ噌味ラーメンだって、醤油味のラーメンだって、お腹が一杯になると言う事に於いては同じなんです。おかげを頂いておるという事は同じです。けれども、味噌味の方はです、必ず味噌をつけるです。味噌味の信心は、おかげを頂くと腰掛けるです。やれやれになるです。これが、醤油味の方の信心になりますと。
 心に安心が育って行くと言うか、本当に信心が育って行く事が楽しいのですから、おかげを頂けば頂くほど有難うなっ行くです。おかげを頂けは頂くほど、お参りをしなければおられなくなってくるです。だからどうでも醤油味。同じラ-メンですから腹の太うなる具合は同じ事ですよ。片一方は必ず結果に於いて味噌をつける。椛目時代でしたけれども、粟粒結核で医者が手の施しようがないという人が参ってきました。
 丁度上滝さんがおかげを受けられた後でしたから、上滝さんもあれが助かると言う先生は一人もなかった。九大の結核の権威と言われてた、何とかという先生が見えられて、もう時間の問題だと言うて帰られた。それからおかげを頂いてあんな健康になられ、そして西鉄に復職なさるという程のおかげを頂いた。その後でその事を聞いて参って来た。熱心に参って来ました。おかげを頂いて病気が全快致しました。
 所がです全快致しましたのは有難かったけれども、村内の不良仲間と付き合うようになったんです。そしてそれこそ新聞紙上を賑あわすような悪い事をしたんです。村内の牛泥棒をしたんです。お母さんが参って来てから申しました。親先生本当にあん時に死んどった方が、こげな恥をかかんならんごとあるなら、あの時に死んでくれとった方が良かったと言いましたよ。それで私は懇々と御理解を聞いて貰いました。
 そしておかげを頂くように、それから本人も内々で済むようなおかげを頂いて、本人も改まってそれからまた仕事をするようになって、今日でもほそぼそですけれども、その家は信心が続いております。本当に無い命をたすけて頂いておって、あの時に助けてもらわんがよかったと言う事は、もう味噌つけたつですよ。あん時親先生死んでおってくれた方がよかったち。けれどもそれからの信心によって、本人も更生しておかげを頂くようになりましたけれども。
 頂いたおかげが返って味噌つけると言った様な事では、これは十年二十年じゃない。何十年先にです、只味噌味ラ-メン的な信心で、お腹いっぱい膨れておるようなおかげであったらです。そのお父さんならお父さん、お母さんならお母さんの信心によって頂いたおかげが、返っておかげを落とす元を作ります。家を潰す元を作ります。いうならばお徳を頂く信心。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃとおっしゃる。
 その辛抱こそ同じ辛抱はしておってもです、信心辛抱によって徳を受けるような修行じゃなからなけりゃいけんのです。その信心辛抱が私は今日は心行だというふうに聞いて頂いた。これが本当に雨じゃろうが風じゃろうがと言う所を通る。目に余る様な所を通る。そういう時にその頂き方がです。例えば甘木の初代が、枯れ葉枯枝一枚だって天地の神様の御物ばいと言う事を教えられたと言う事は。
 そういうふうに細く小さく心を使うこと、その事がその根本に心行があったから、ああ言う偉大なお徳を受けられたんだと、今日わたしは、改めて分からせて頂いた。只天地の親神様の物を粗末にされなかったというだけではないです。その前提である所の心を使われた。それが心行だった。だからその心行が限りなく大きくなった。その限りなく大きくなったのが、当時甘木王国と言われる程しの御比礼を。
 神様がそういうふうに現して下さった。私はいま合楽で言われておる、表行を廃して心行に生き抜くと言う事を、愈々徹底してです、日常生活の上に心行を、愈々広げて行かねばならない。様々の時に私共がそれこそ不平不足の一つも出ろうごとある時に、小言の一つも出ろうごとある時に、私は表行的な事で霊徳を受けるという人も、随分ありますけれども、そういう信心は長続きせんです。心行から生まれた徳、心行から生まれた所のおかげならばです長続きするです。
 どうでも本気で心行をさせてもらわなきゃならん。それこそ不平不足の出ろうごとある時にはです、心の中で号令かけなければいけません。大きゅうなれ大きゅうなれ。しかもその内容がです、例えばそれが、有馬稲子が言っておった台詞じゃないですけれども、そこの使用人を見ると、そこの主人が分かる。目る余るような使用人が、そこにおるとするなら、あの使用人ばかりは首にせにゃいかん。
 あげな奴は辞めさせにゃ行かんてんなんてんと言う思いじゃなくて、自分自身の心の中に問うてそれを大きく受けて、そして自分がいよいよ清まる事に、改まる事に心を使わせて頂く。その事が形に現さずに心でして行くのですから心行です。今日から皆さん心の中に、大きゅうなれ大きゅうなれを、一つどうでんこうでん、実行なさいますと良いですね。ごちゃごちゃ言おうごとある時がある。
 目に余るような事がある。そういう時にです黙って治めるです。大きゅうなれ大きゅうなれと、自分の心に言い聞かせる。その辛抱こそがです、身に徳を受ける修行なんです。そういう辛抱でなければ、歯を食い絞ったごたる、ただ辛抱だけじゃいかんです。辛抱の後が有り難がとうなるような辛抱でなからにゃいかんです。おかげで大きくならせて頂く事が出来るという。
 そういう辛抱こそが身に徳を受ける修行であり、例えば柏手も無理に大きな音を立てるは及ばん、小さい音でも神には聞こえる。拝むにも大声をしたり節をつけたりと言う事は、形の上に現してという事だと思うです。形の上に現さんでも、心で、物言うように、神様に願うというようにです、自分の心で全ての日常生活の取り組み方というものをです、心を大きくならせて頂く事の為の全てであるというふうに頂く。
 そこには辛抱が要ります。ここで一口言うたら胸がスゥッとするごとある時もあります。これはいっちょ、どうでんこうでん、これだけは言うて聞かしとかにゃという事もあります。けれども、それを自分の心の狭さ、心の汚さを見極めながら、大きゅうなれ大きゅうなれという生き方をする。その事を今日は、その辛抱こそが身に徳を受ける修行。身に徳を受ける修行とはそういう修行だと言うことを聞いて頂いたですね。
   どうぞ。